キリストの濫用

わかってないな。

聖書を大して理解していないやつが真似をするとこうなる。

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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170909-00000010-jct-soci

「不倫批判できるのは不倫してない人だけ」牧師の山尾議員擁護に騒然  「山尾は不倫叩きしてた人」(J-CASTニュース)- Yahoo!ニュース

話題になっているのは、「AbemaTV」の「けやきヒルsNEWS」(2017年9月8日の昼に放送)内で、番組コメンテーターのアーサー・ホーランド牧師(65)が語った内容だ。このダイジェスト版を「AbemaTV」が活字の「Abema TIMES」で9日にネット配信し、多くの人の目に留まるようになった。

  牧師は山尾議員の不倫報道についての感想を求められ、不倫報道に井戸端会議的な面白さを感じるのは理解出来るのだが、とし、「新約聖書」のヨハネ福音書8章7節を紹介した。これは姦通罪で捕えられた女性を責め立てる男たちに対してキリストが言ったとされる言葉で、

  「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」

というもの。全く罪がない人などはいないし、不倫を批判できるのは不倫をした人の身内だけ、という考え方もある、とした。報道も傷ついている家族や子どものことを考え、丁寧に行って欲しい、と訴えた。これに対し、「何かズレていないか?」という声があがり、牧師に対する批判一色になってしまった。

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?詭弁って知ってますかね

?イエスの詭弁の終着点は事大主義にいきつく

?責められるのは被害者だけ、親族だけ、というスキームが無謬、有効範囲が無限大と仮定するならば、天涯孤独な人が殺害されたらこの人のなかではどうなるのでしょうか。有効範囲が限定されているのであれば、どこまでなのでしょうか。当然本人なりに区切りを設けているはずです。

http://diamond.jp/articles/-/16819?page=2

もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのだろうか。

(・・・)だって重罰を望む遺族がいないのだから。

ならば親戚や知人が多くいる政治家の命は、友人も親戚もいないホームレスより尊いということになる。

生涯を孤独に過ごして家族を持たなかった人の命は、血縁や友人が多くいる艶福家や社交家の命より軽く扱われてよいということになる。

親に捨てられて身寄りがない子どもの命は、普通の子どもよりも価値がないということになる。

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溺水する蜀犬 http://SNS.jp/view_diary.pl?id=1955939620&owner_id=40049699&full=1

「誰もが自己利益のために行動している。私はそれを咎めない。だから、諸君も私を咎めるな。 」

この命題は一見すると「フェア」なものに見えます。キリスト的な「アレ」ですね。

しかし、遂行的には「持続的・汎通的な正否の判定基準はこの世に存在しない」という道徳的シニスムに帰着することとなります。

即ち「とりあえず今勝っているもの、今強者であるものが言うことがルールであり、私たちはそれに従うしかない」という「事大主義」です。

誰もが他人から見て理解しがたい意味ぷーなしつけをする。私もしているが、お前たちもしている。だから、誰もその意味ぷーなしつけを咎める権利はない。

誰もが多かれ少なかれバカだ。私も多かれ少なかれバカだが、お前たちも多かれ少なかれバカだ。だから・・・。

このシニスムが深く浸透すれば、いずれあらゆるものを誰も信じない日がやってくることになるでしょう。

そのあたりの構造性が理解できていれば、溌剌とした笑顔でキリストみたいなことはなかなか言えないものですが、まあ、わからない人は、このままわからないまま、事大主義に染まっていてください。

誰とは申し上げませんが、たまにこういう意見が散見されます。これこそ、頭が悪いと言わざるを得ません。

「ただ叩きたいだけの人の叩いている時の気持ちを知りたい

正義のつもり?遊び?あなたたちはそんなに清廉潔白なの?」

このような方のことを、事大主義者と呼びますが(説明は前にしました)、こう言う人には、「仮にそのような清廉潔白な人(完璧な人)」がいた場合、という発想が出来ません。論理的に存在し得ない証明がなされない限り、それは存在する可能性がある、ということがわかっていないからそういうことになります。仮に私がインターネット上で「そうですが、なにか?」といって、本当に私が「清廉潔白(完璧)」でないことの立証をするのは、事大主義者の方ですからね?出来ますか?

こう言う方にシステム設計をさせると、すぐにエクセプションが発生します。都合の悪いことはすぐに例外だー!と叫ぶわりには、その例外に対しては、対処する必要がないと思っているからです。

以前に「それは例外だ、いちいち例外を持ち出すな」と逆ギレしていた方をお見かけしたことがありましたが、このような方への処方箋は、チャールズ・ダーウィンの爪の垢を飲ませることになります。

チャールズ・ダーウィンは自説にとって「都合の悪い」事例に出会った場合には、これを必ずノートに記録していたといいます。

かの天才の記憶力をしても、「自分にとって都合の悪いこと」は記憶し続けることが困難であったからです。だいたい、反証可能性がどれだけあるかが科学的な態度でしょうにね。あっ、科学的な想像力がないから、こうなってたのか。それは失礼いたしました。

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「完璧ないいひとではない自分には、他人を注意する資格などないのでは、と遠慮するかたが日本人にはけっこう多いようなので、これについてお話ししましょう。

一九七九年二月二三日の『朝日ジャーナル』に載った十八歳の高校生の投書が、当時話題になりました。

(・・・)駅のホームや道路にタバコを投げ捨ててるのに、あなたたち大人は高校生がタバコを吸うのを注意できるのか。酒場で人の迷惑顧みず騒いでいるのに、大きな音でレコードをかける高校生を注意できるのか。自分だって三流校しか出てないのに、受験勉強をしない高校生を注意できるのか。カネのためなら人を蹴落としてまで出世しようとしてるのに、暴力をふるう高校生を注意できるのか。あなたは親として、大人として、自分のこどもを本当に叱ることができるのか・・・・・・。

といった調子でオトナの矛盾をあげつらい、最後には、私たち高校生がこんなになったのは、オトナが教えるべきことを怠ったからだ、と責めるのです。

私だったら、こうした主張をする学生に即答できます。「はい、叱れますよ」

(・・・)この数週間後、三月十六日号の投書欄には、反響の投書が何通か掲載されてます。その中で二〇歳の学生が、あれは問題のすり替えにすぎないと冷静に指摘しています。

(・・・)“甘えた大人への復讐”を書いた高校生は、オトナたちに若者を叱る資格があるかどうかを論点にしてますが、そもそもだれかを叱るのに資格など不要です。

罪人(つみびと)注意士一級とか、迷惑行為取扱主任二級などの国家資格は、日本には(きっと世界のどこにも)存在しないはずです。

仮に、禁煙の電車内で私がいままさにタバコを吸ってるとしましょう。そしたらとなりの人もタバコを取り出して吸おうとした。そこで私がすかさず、おいおまえタバコ吸うな、禁煙だぞ! と叱ったら、そりゃだれが見たっておかしいですよ。

でも道にタバコを投げ捨てるオトナの罪と、タバコを吸う高校生の罪は、罪の種類が別物ですから、それを一緒くたに扱うことはできません。どちらの罪が重いかという問題と、注意する資格があるかないかという問題は、完全に独立した命題です。こういったことをひとつの問題であるかのように論じてしまうのは、あからさまな問題のすり替えです。

(・・・)これは古代から存在する典型的な詭弁なんです。他人に悪事を追及されたものが、「おまえはなんにも悪いことしてねえのかよ、おまえだって悪いことやってるのに、オレを批判する資格があんのかよ」と逆(さか)ねじくらわして、おのれの罪から逃れようとする。これを世間一般では、悪あがきと申します。まあイエス・キリストでさえ、この詭弁を使ってるくらいですからね。あなたがたの中で罪を犯したことのない者は、この女に石を投げなさーい、みたいな。

他人に注意したり叱ったりするのは、資格の問題でなく、権利の問題なんです。(・・・)もし私の行為にも注意されるべき不快な点があるというなら、それはべつに話し合えばいいことです。(・・・)迷惑だと思った時点で、不愉快だと感じた時点で、すでにあなたには相手を注意する権利が生じています。あとはその権利を行使するか否かだけ。」

パオロ・マッツァリーノ『日本人のための怒りかた講座』(筑摩書房、2016.07)pp.106-109)